風立ちぬ 堀越二郎 実在のゼロ戦設計者と監督・宮崎駿、カプローニとの関係 ジブリ

風立ちぬ 堀越二郎 実在のゼロ戦設計者と監督・宮崎駿、カプローニとの関係 ジブリ


ジブリ「風立ちぬ」のあらすじを追う前に、実在の人物である主人公の「堀越二郎」の半生を振り返ってみましょう。

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堀越二郎は、1903年(明治36年)生まれ、群馬県藤岡市出身。
二郎が生まれた1903年というのは、奇しくも「ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功した年」です(何か数奇なものを感じます)。

当時の時代背景としては、翌年の1904年に日露戦争が開戦します。日本はこの戦争に勝利し、つまり史上初、アジアの小国・日本が欧米の大国との戦争に勝ち、世界が驚嘆しました。日本国内も「大戦景気」に沸き立ちます。また歴史的に見ても第一次世界大戦(1914年〜)に至るこの時期は、世界を巻き込んだ武力による領土の争奪合戦が頂点に至る、まさに「世界戦争の時代への幕開け」とも言えます。

そして、生まれたばかりの「飛行機」という新時代の乗り物が、次第に戦争の主力となっていくことで、飛躍的な進歩を遂げていきます。

堀越二郎の生まれた当時は、まさに飛行機が誕生した「航空機の時代」であり、同時に「戦争の時代」でもあります。アメリカ・ロシア・ヨーロッパ諸国のいわゆる欧米列強がせめぎ合う中で、アジアでほとんど唯一自主独立を果たしていた日本が、巨大な帝国主義の波に飲み込まれまいと必死に抵抗を続けていました。また、生まれたばかりの航空機というものに夢を託せる時代でもありました。
堀越二郎は、このような時代に生まれた、小さい頃から飛行機好きな、今で言えば「オタク少年」とも言えます。また「少年誌(今でいう漫画雑誌で、少年向けの小説誌)」に連載されていた物語を読むことで、飛行機への思いを膨らませていったようです(このあたりが宮崎駿監督自身のエピソードとダブります)。



ずっと飛行機好きなままで育っていった二郎少年は、自分自身が飛行機の設計にたずさわる技術者となることを夢見ます。地元の中学では成績は非常に優秀で、教師に対して「ほかの生徒に合わせていると自分に合った勉強ができない」等と言ってたようです(ちょっと「やな野郎」ですね 笑)。中学卒業後には、航空機の設計者となるために旧制第一高等学校(今の東京大学の1〜2年)へ進みます。その後、東京帝国大学の航空学科へ。まさに、航空機設計者としてのエリートコースを邁進します。大学在学中に当時の三菱内燃機(現・三菱重工)からスカウトされ、大学を首席で卒業後にそのまま同社に入社します。

1929年、三菱重工は堀越二郎に航空機の先端技術を学ばせるため、ヨーロッパ・アメリカに1年半派遣します。その洋行の中で、イタリアの飛行機設計者であるジャン・カプローニ伯爵との出会いもありました。

ここで、映画風立ちぬ」のもう一人の主人公とも言えるジャン・カプローニについて。
1911年にイタリアで初めて実用航空機を開発したメーカー「カプロニ」の創業者です。航空機の黎明時代に非常にユニークな機体を次々に誕生させました。第一次、第二次世界大戦中は連合国の需要に応え、爆撃機や輸送機の生産で成功しましたが、次第に時代の要請についていけなくなり、戦後1950年に消滅。しかし、三発三葉(エンジン3つに羽が縦3列)の「カプロニCa.4」、後のジェット機のプロトタイプであるモータージェットエンジンの「カプロニ・カンピニN1」、胴体全体が巨大なダクテッドファンになっている「スティパ・カプロニ」など、見るだけでも楽しい「夢の飛行機」を次々と生み出していきました。

映画風立ちぬ」の中でカプローニは二郎に
「飛行機は戦争や経済の道具ではない。それ自体が美しい夢なのだ」と説きます。
堀越二郎カプローニという「夢の師」と出会うことで、「飛行機は夢の具現」であるという思いを強くしていったものと思われます。


堀越二郎はその後、入社わずか5年で設計主任に大抜擢となり、1932年「七試艦上戦闘機」、1934年「九試艦上戦闘機」などの名機を次々と設計します。特に九試艦上戦闘機は日本製では初ともいえる世界水準の戦闘機であり、実践で活躍します。そして堀越二郎は世界の戦線で「姿を見たら逃げろ」とまで言われて恐れられた「十二試艦上戦闘機(後のゼロ戦)」を世に送り出します。

飛行機屋としての堀越二郎は、非常に「こだわりの設計者」でした。

彼が航空機づくりの中で特にこだわったのは、ひとことで言えば「機能美」でした。「美しい機体を作ること」と、「すぐれた機能」を両立させようとしたのです。搭載エンジンが決まると、流れるようなボディ全体のイメージを描き上げ、そのイメージを設計に具現化していきました。彼は一般的な飛行機の技術者と違い、「美しさと機能は両立できる」という強い哲学のようなものがあったのでしょう。



堀越二郎が開発した一例として「沈頭鋲(ちんとうびょう)」というもの。機体に打ち付けられている鋲の頭を削って滑らかにし、少しでも空気抵抗を減らしつつ軽量化を図る技術。また後のゼロ戦の原型となった「九試単座戦闘機」で採用された「逆ガル翼(主翼が「逆への字」になっている特徴的な形態)」など。これは翼に微妙な角度をつけることで乱気流を防ぎ機体を安定させる効果を持っていました。こうした技術の結晶である「ゼロ戦」はスピード、運動性能、航続距離、操作性などどれを取っても世界一の性能を持つ戦闘機でした。また堀越が考案した「沈頭鋲」「ねじり下げ」などは、現在でもほとんどの世界の航空機で採用されている技術です。

↓世界の航空機史上、画期的な戦闘機「ゼロ戦」



その後、ゼロ戦の後継機である「烈風」の開発に取りかかりますが、1945年の終戦には間に合わず、実戦投入は叶いませんでした。政府機関とやり取りしていた堀越は、タイミング的に烈風は間に合わないことはわかっていたものと思われますが、手を抜くことなく設計に全力を投じました。

映画風立ちぬ」にも描かれていますが、第一次世界大戦前後の日本の兵器技術力は欧米に比べるとまだまだ低く、それが実践を重ねるうちにどんどん蓄積されてきて、やがて欧米列強に恐れられるレベルにまで高まっていきます。それも彼ら若い技術者の試行錯誤の上にあるものです。

↓「ゼロ戦」の遺伝子は今でも世界の航空貴意脈々と受け継がれている



堀越二郎の戦後は、分割された中日本重工業(後の新三菱重工)に勤務し参与にまで昇り詰めましたが、退社後は東大の宇宙工学研究所で講師を務めました。防衛大学・日本大学の教授を歴任後、1982年に亡くなられました。勲三等旭日中綬章を授与されています。


こうやって振り返るとわかりますが、子供の頃から少年誌の飛行機小説を読みあさっていた飛行機マニアとしての堀越二郎の姿は、完全に少年期からの兵器オタクである宮崎駿自身の姿と重なっています。鈴木敏夫プロデューサーが「『風立ちぬ』は宮崎駿の自伝」と言ったのは、こういう部分のことかと思われます。



もうひとつ、堀越二郎宮崎駿に共通しているのは、二人の抱える大いなる矛盾です。堀越二郎は純粋に美しい飛行機を造りたかった。しかし時代はそれを許さず、兵器としての航空機の設計しか許されませんでした。宮崎駿も、東映動画に入社した当初は組合活動に熱心な左巻きであり、作品でも繰り返し戦争の愚かさを描いていますが、子供の頃から無類の兵器マニアであり、高校時代に「世界の艦船」という兵器雑誌に文章を送っているほどです(しかもものすごくオタクチックな専門文章w)。

↓高校時代に宮崎駿が寄稿した「世界の艦船」は現役ですよ





宮崎駿は「風立ちぬ」で「矛盾を抱えながら生きる男の姿」を、堀越二郎に託したのかも知れません。


この堀越二郎ジャン・カプローニとのかかわり、飛行機設計に託す夢は、映画の縦軸となります。


この縦軸は、基本的に現実の堀越二郎の半生を描いた「ノンフィクション」「自伝」の部分です。


そして映画「風立ちぬ」の横軸ともいえるもうひとつの要素、ヒロイン里見菜穂子との関係(つまり作家「堀辰雄」)は…?


>風立ちぬ 堀辰雄 ほりたつお あらすじ ストーリー
>風立ちぬ 堀辰雄 実在の妻 矢野綾子 節子 里見菜穂子 堀越二郎




posted by トトロ at 12:48 | Comment(3) | 風立ちぬ 堀越二郎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
実際の堀越は別に兵器を作ることになんらの嫌悪も悔恨もありませんでしたがね
Posted by at 2015年02月24日 15:28
逆ガルの目的は空気抵抗の低減狙いで、むしろ乱気流発生の原因になっていたのですが
Posted by at 2015年03月07日 10:54
その辺が分からない右翼監督はなんなんだろうね
Posted by at 2015年03月24日 03:15
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