評論・考察@【「風立ちぬ」は一流のファンタジー映画であり、アクション映画でもある。】



映画風立ちぬ」に関する、私の感想評価レビューを交えた評論です。


映画「風立ちぬ」の大筋をシンプルに考えると、プロジェクトX的な「ゼロ戦開発物語」(堀越二郎の半生)と、大昔の典型的な、病気で亡くなるヒロインとの悲恋もの(いわゆるサナトリウム文学・堀辰雄の「風立ちぬ」)を融合させた映画という事になる。飛行機開発は失敗の連続だし、堀越二郎は設計者なのでゼロ戦に搭乗もせず、ひたすら紙に図面を引いていくばかりになる。悲恋の方は、恋人がどんどん弱っていき、最後には亡くなってしまうに決まってる。そのままひねりもなく作れば、恐ろしいほど暗く、重く、退屈極まりない作品になるはずだ。


「風立ちぬ」はドラマチックなファンタジー映画である。


しかし宮崎駿はここに、「夢」という幻想的・ファンタジー的要素を無理矢理にねじ込んだ。実在の堀越二郎とカプローニは一度も対面してないはずだが(作品中でも夢の中でしか会ってない)、日本にいる二郎と、イタリアにいるカプローニがお互いが見ている「夢」の中でつながり、自由に会話まで交わしているという(普通ならこれはテレパシー)設定で、アニメならでは・現実にはありえないシチュエーションを無理なく同居させている。



過去の作品を振り返ると、ファンタジーであるはずの「ラピュタ」「トトロ」「千と千尋」「ハウル」「ポニョ」といった作品にはこういう描写は出てこない。しかし「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ(原作)」といったSF作品では、テレパシーや夢の中での会話といった設定が見受けられる。より現実味があり、シリアスな作品にのみ登場するものだ。宮崎駿は作品がリアル・シリアスに振れると、アニメの本質である「破天荒な楽しさ」を取り戻そうと、こういう設定を持ち込んで作品としてのバランスを取ろうとするのかもしれない。多分無意識に。




「風立ちぬ」に繰り返し登場する二郎とカプローニの夢の中では、実に様々な形の飛行機が飛び回っている。よくは知らないがおそらく「雑想ノート」などで書きためられていた宮崎駿の想像上の飛行機とか、テスト飛行しかしてない幻の機体とか、いろんなものがあるのだろう。三段の翼が三つ連なった九翼のものまであった。大体CMで使われてる二郎の「鳥形飛行機」も想像上のものだし。航空機オタクの宮崎駿がやりたい放題やっていた。カプローニの夢の飛行機に乗っている乗客も実に陽気で、変に巨乳のイタリア娘とかが多かった(笑)。夢だから、二郎とカプローニは体一つで翼の上を歩き回って普通に会話を交わす。作品中でカプローニ自身のセリフにあったが「夢は便利だ」。なので、この「夢の会話」の部分がとても明るく、楽しく、美しい。重くシリアスになりがちなテーマの作品のアクセントになり、ブレークになっている。関東大震災の真っ最中にさえカプローニは白昼夢で登場する。そしてこの「夢の会話」は映画のクライマックスにもなる。

「風立ちぬ」はダイナミックなアクション映画でもある


また「風立ちぬ」ではタイトル通り、劇中何度も風が吹く。それもとびきりのいい風が吹く。宮崎アニメにおける風は単なる自然現象ではなく、「変化」であり、物語の節目を観客に示す目印であり、作品の神たる制作者が演者たるキャラクターに課す試練である。風が吹くとキャラクターの人生の平穏や均衡が破られる。次のステージに向かわねばならない。


二郎と菜穂子の最初の出会いは、列車の外デッキで隣り合わせた際に橋にさしかかったせいで突風が吹き、飛ばされた二郎の帽子を菜穂子がキャッチした事がきっかけ。そのあとすぐに関東大震災が起こり、二郎は菜穂子たちを助ける事になる。そして二度目の出会いは、軽井沢で静養していた菜穂子が絵を描いていたが、ふいに風に飛ばされたパラソルを二郎がつかまえた事がきっかけだった。そしてラストシーン…。


宮崎駿はアニメ映画の監督だが、自身も作画上がりの「生粋のアニメーター」である。アニメは言葉ではなく動きで見せるものだ、という事を熟知している。基本「ディズニー」なのである。時にはストーリーそのものを動きから発想しようとさえする。「重力を意識した自然な動き」と「それを観客の感性に訴えるアニメ的なデフォルメされた動き」に関しては、一切の妥協がない。だから、作品内で吹く風も、制作者の意図を観客に伝えるキャラクターの一人なのだ。



その他にも、実は「風立ちぬ」ではさまざまな実験的な手法が試みられている。飛行機の音などのSE(音響効果)を「人の声」で行うというのもそのひとつ。最初聞いたときは「一体どうなるのか?」と思ったが、実際に映画を観てみると違和感はあまりない。どころか、人の声で表現する事で、音に「意志」が込められているように感じる。


例えば隼のテスト飛行のエンジン音〜離陸音。複数の「悪魔的なうなり声」が次第に次第に高まってきて、エンジンが始動する。これ、普通だったらホラー映画とかに使われる感じだ。カプローニの「飛行機は呪われた夢だ」という言葉を音で表現しているようにも思える。「空飛ぶ機械だけど、戦闘機だからちゃんと人も殺すよ」という事か。また隼が最高速度以上を出すために「動力降下(自由落下ではなくエンジンをふかしながら加速降下する)」する際のエンジン音と機体の軋み。まさしく悲鳴である。



また関東大震災の発生時も、複数の人の声を合成した不気味なSEだ。大地の叫びであり、呪いのようにも聞こえる。自然は人に優しいだけでなく、まるで罪なき人に罰を与えるかのごとくに襲いかかってくる事がある。私は個人的に、まさに主人公を演じた庵野秀明「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」の第6使途の「叫び声」を連想した。意志を持たないように見える物体が上げる叫び声の気持ち悪さだ。私は東北震災の被災者ではないのでわからないが、あの地震や大津波の音も、もし現場にいたらあのように感じただろうか。それにしても、70歳を超えた監督が、このような新しい手法を編み出した。「過去の遺産」で喰っていこうとだけしていたら、こんなものは生まれない。劇中の二郎と同様、宮崎駿も常に新しいものを求めているのだ。



「風立ちぬ」の登場人物たちにはみな時間がない。日本という国が戦争のために総力を結集しなければ生き残れなかった時代であり、飛行機づくりにたずさわった者たちは、時間も資源も何もない中で敵に勝つための軍用機を作らなければならなかった。できあがった飛行機にはパイロットが乗り込んで戦いに出ていくのだ。主人公の二郎も、寝る間も寸暇も惜しんで図面を引き続ける。おまけに菜穂子との恋愛も、当の菜穂子自身が「残された時間が少ない」ことがわかっていた。二郎が妹の加代に言う「僕たちは今、一日一日をとても大切に生きているんだ」という言葉はその通りである。菜穂子の美しさは、まるで散りゆく花の美しさだ。輝く時間が限られているからこその美だ。彼女自身の精神の気高さもあり、二郎との質素な婚礼の彼女は、ぞっとするほど美しい。今の我々とは比べものにならないほど、当時の人たちは濃密な時間を生きていた。


「風立ちぬ」はこのようにダイナミックな映画だ。悪く言えば「数十年前のカビの生えたような題材」を、まるでたった今のように、生き生きと我々の前に提示して見せてくれた。「今を生きる」二郎たちの物語だ。




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posted by トトロ at 10:11 | Comment(0) | 風立ちぬ 評論 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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