評論・考察A【映画「風立ちぬ」で、日本の美しさを描ききった宮崎駿は、いわゆる左翼文化人なのか】



評論・考察A【映画「風立ちぬ」で、日本の美しさを描ききった宮崎駿は、いわゆる左翼文化人なのか】


映画「風立ちぬ」は監督・宮崎駿が徹底して「美しさ」にこだわった映画である。


モデルになった堀越二郎が、技術者でありながら、工業製品にひたすら「美しさ」を求め、追求し続けた人であった、という事も、もちろんあるのだが

同様に、監督・宮崎駿はこの映画の中で、徹底して「美しさ」にこだわっている。


「風立ちぬ」では日本の自然や風土の美しさ、日本人の精神の美しさ、そして日本人そのものの美しさが、まっすぐに描かれている。


しかし、その美しさは、過去の作品、例えば「となりのトトロ」の時のような、おだやかなだけの美しさではない。どこか怖さ・凶暴さを秘めた「二面性を持つ」美しさなのである。



その話をする前に、簡単に宮崎駿の半生を振り返ってみる。



宮崎駿は、1941年(昭和16年)東京に生まれたが、戦争が終局に向かっていた時期で、すぐに栃木県へ疎開。疎開先では叔父が「宮崎飛行機」という飛行機工場を経営していて、父親は工場長だった。これが宮崎駿の「兵器・戦記好き」のルーツとなる。



宮崎駿は幼少時に終戦を迎え、それまでの富国強兵・軍事一色の日本が、一気にアメリカ流の「民主主義」を押しつけられ、みるみるアメリカ文化を受け入れていく「価値観の強制転換」を、原点として目の当たりにしている。この世代(いわゆる「少国民世代」)は、日本、とりわけ日本の権力機構に恨み、といってもいいくらいの反発を抱いている人が多い。



しかし戦争中、彼の家はむしろ軍需で得をした一族であったし、一家は裕福で徴兵もまぬがれていたそうだ。しかし彼の母親は、戦時中〜敗戦後の日本の「変節」からいわゆる進歩的知識人を軽蔑していて、幼い駿にもそれを吹き込んでいたらしい。こうした体験が宮崎駿の「分裂気味の人格」を形成する一要因になった事は想像に難くない。


こうして、宮崎駿の「兵器好きなのに、戦争が嫌い。同時に祖国・日本(正確には日本の権力)が嫌い」という矛盾する人格が形成されていく。


その後の宮崎駿は、手塚治虫に憧れて漫画家を目指すが、東映動画制作のアニメ映画「白蛇伝」を観て衝撃を受け、アニメーターを志して東映動画に入社し、組合運動に傾倒していくことになる。典型的な左翼文化人の人生である。もちろんその間もずっと、彼は「軍事・兵器好き」でありつづけたわけであるが。


このように、宮崎駿の生い立ちは、彼が宿命的に抱えるいろいろな矛盾から出発していることがわかる。



彼の初期の作品は、西洋コンプレックスの塊のように(当時は日本の文化全体がそうだった)、日本的なものが一切登場しない。「ハイジ」「母を訪ねて三千里」などの名作シリーズはもちろんだが、その後に自身が監督・脚本を務めた「未来少年コナン」「ルパン三世・カリオストロの城」「名探偵ホームズ」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」…見事なまでに「西欧的な場所・文化地域が舞台」である(実は最初期の作品「パンダコパンダ」はもろに日本が舞台なのだが、「日本臭さ」がまったくない)。



例えばマンガ版(原作)「風の谷のナウシカ」においては、主人公ナウシカはヨーロッパの末裔の小国の姫君であり、最終的な「敵」となる土鬼(ドルク)の「墓所」は東洋の一角にあり、それは現代日本のテクノロジーで作られたという設定だ。今現代を生きている我々の科学(特に日本の技術力)は、ナウシカたちのいる世界では「諸悪の根源」なのだ。



逆に「日本」がはっきりと舞台になった作品は「となりのトトロ」からであるが、急にいきなり、日本の土着的神道、自然と人々の生活が一体になった風土を全面肯定して描いている。それまで「日本」を忌み嫌っていた「食わず嫌い」が、急に目覚めたように「日本を喰いまくってる」ような変わり様だ。



これ以降、宮崎駿は「西欧的な舞台」(「紅の豚」「ハウルの動く城」等)と「日本の土着的な舞台」(「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」等)の間を何度も揺れ動く往還現象を繰り返すことになる。



このように、彼の作品世界は、「軍事・兵器好きと左翼的平和指向」「西欧への憧れと日本への回帰」を行き来し、矛盾、カオス、二面性に充ち満ちている。自分自身の思想の変遷を、作品を通して観客に見せているかのようだ。


宮崎駿は最近、いわゆる自民党政権の憲法改正論議に関して、「憲法改正などもってのほか」などと、いかにも元労組の闘士といった体の左翼的発言をして、物議を醸している。とてもじゃないが、さまざまな「矛盾」「カオス」「二面性」を作品世界の中で展開し、彼自体の思想の変遷を観客に見せ続けてきたクリエイターの発言とは思えない「薄っぺらさ」だ。しかも彼は非常に世界の戦記に詳しい(鈴木敏夫によると、独ソ戦争が特に好きらしい)。保守層のほとんどは知識量では宮崎駿には到底かなわないであろう。政治的に「日本」「戦争」を語る時だけ、自分の日頃の趣味・嗜好を忘れたかのように反戦平和を語る、都合の良さ。



しかし、この「都合の良さ」こそがこの人の存在そのものなのだ。宮崎駿はエコロジーを訴えながらタバコを吸いまくりアウディ(愛車)を乗り回し、スタジオジブリは反原発を訴えながら電気を使いまくる。



話がそれすぎた。「風立ちぬ」に戻そう。


映画「風立ちぬ」の中で、日本の自然・風土は実に美しく描かれている。映画冒頭の水田が広がる田園風景、高原鉄道のレンガ造りの鉄橋、山岳の麓に広がる高原の一面の雪景色…。


しかし同時に、自然は人間に優しいだけではない。時には人間に牙をむく。関東大震災の描写は特に圧巻だ。SEに不気味な人の声を使い、地面はまるで蛇のようにうねり、人々の営みをいともたやすく破壊していく。まるで罪なき人々に罰を与えるかのごとく。また高原療養所の背後に広がる山岳風景は、そこで行われている当時の過酷な結核治療の描写があり、ぞっとするほど冷たく美しい。ここでの自然は、二面性を抱えているからこそ美しいのだ。



映画のテーマである「飛行機の開発」に至っては、二郎は冒頭からずっと「空を飛ぶ夢の乗り物」を作ることを夢見ているだけであるが、彼が三菱で作っているのはただの飛行機ではなく、軍用機なのである。それには人が乗って戦闘に出かけるのだ。カプローニが「ウム、いい仕事だ」と絶賛する「二郎のゼロ」の美しさは、ムダを排した究極の機能美だ。その「機能」とは何か?それは敵の戦闘機を打ち落とす能力=戦闘力をも意味する。映画のラストで登場するゼロの編隊が飛び去っていくシーンは涙が出るほど美しい。しかし彼らは一機も戻ってこなかった。



そしてこの映画の中では、日本人の精神の美しさが何度も描かれる。二郎少年は、他人を助ける、という行為に一切のためらいがない。人を助ける、という意識すらないようだ。頭で考えるより先に体が動いている。


二郎と菜穂子をかくまう黒川家の妻。着物の所作が美しく、毅然として、決してあわてず、芯が強くしっかりとしていて、まさに銃後の妻である。それでいて茶目っ気たっぷりで懐深く、菜穂子や加代から「お姉さん」と呼ばれて慕われている。


菜穂子の婚礼の儀。菜穂子はまず何より先に黒川夫妻に深々と頭を下げる。「身ひとつの私どもへの温かい思いやり…お礼の言葉もございません」と。
菜穂子は自分が死ぬことはわかっていたが、死を恐れる言葉をついに一言も発しなかった。そんなヒマがあるのなら、二郎との時間を精一杯大切にしたかったのだろう。そして九試が完成した朝、二郎を送り出し、部屋を綺麗に整理し、手紙だけを残してだまって死ぬために黒川家を後にする。黒川夫人は部屋を見ただけですべてを理解し、後を追おうとする加代に「追ってはいけません!そっとしておきましょう…」と制する。相手の気持ち・決意を察し、「自分だったら」と考えて行動する。日本人同士の精神文化に根ざした美しいやり取り。



「風立ちぬ」には「精神の貧しい日本人」が全く登場しない。戦争ですらこの映画では「日本が欧米に飲み込まれないようにするため、必死に背伸びした結果」と、肯定すらしているように見える。左翼である宮崎駿は、戦争も日本人も否定したくてたまらないはずだが。登場する「日本的なるもの」は、どれもこれもみな涙が出るほど美しい。



もうおわかりであろう。「宮崎駿は左翼」というのは、彼自身を構成するカオスの、ほんの一部分の要素にすぎない。確かに経歴・言動は左翼そのものであるが、しかし日本を貶めたい・戦争を忌み嫌っている【はずの】左翼が、こんなに戦闘機を美しく描くだろうか、こんなに日本を美しく描くだろうか、こんなに日本人・とりわけ日本人の精神文化を美しく描くだろうか。宮崎駿は矛盾・二面性のカタマリなのである。



実は「風立ちぬ」の中でこれをはっきりセリフで明示している場面がある。二郎はある日会社帰りに、道端で親の帰りを待つ貧しい姉弟を見て、自分が買った菓子を「これを食べなさい」と差し出す。しかしその姉弟は不信感をあらわにし、キッパリ拒否して逃げていく。同僚の本庄は二郎の行為を「偽善だ。腹を減らした子供なんてそこら中にいる。俺たちが造ってる飛行機一機のかねで、日本中の腹を空かせた子供に1ヶ月くらい腹一杯喰わせられる。それでも俺は飛行機を造る」そして唐突に「嫁をもらう」と言い、「仕事に専念するために嫁をもらう、これも矛盾だ」と笑う。


そして二郎の「夢の師匠」カプローニは「空を飛びたいという人類の夢は、呪われた夢でもある。飛行機は殺戮と破壊の道具になる宿命を背負っているのだ…」そうこともなげに言う。夢の道具である飛行機を造っている彼は同時に、「殺戮と破壊の道具になる」飛行機を造っているのだ。そして彼自身も善悪が混沌としたキャラクターとして描かれる。マンガ版「風の谷のナウシカ」に出てくる土鬼の神聖皇帝ナムリスや、終盤で登場するトルメキア王(ヴ王)を思い起こさせる。そして考えてみれば、二郎とカプローニは、共に兵器の製造を生業とする「死の商人」と、その手先である。宮崎駿の生家が飛行機工場(当時はもちろん軍用機)だった事を思い出す。



綺麗だから美しいのではない。それは一元的なものの見方にすぎない。悪魔的なものを内部にはらんでいるからこそ、その二面性こそが美しいのだ。


保守派の人からこの映画は妙に叩かれている。宮崎駿自身の言動は、どうしようもない程「左翼」であるからだ。しかし先入観を捨てて実際に観れば、絶対に「左翼映画」でも「反日映画」でもないことは一目瞭然である。





posted by トトロ at 14:00 | Comment(3) | 風立ちぬ 評論 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

評論・考察@【「風立ちぬ」は一流のファンタジー映画であり、アクション映画でもある。】



映画風立ちぬ」に関する、私の感想評価レビューを交えた評論です。


映画「風立ちぬ」の大筋をシンプルに考えると、プロジェクトX的な「ゼロ戦開発物語」(堀越二郎の半生)と、大昔の典型的な、病気で亡くなるヒロインとの悲恋もの(いわゆるサナトリウム文学・堀辰雄の「風立ちぬ」)を融合させた映画という事になる。飛行機開発は失敗の連続だし、堀越二郎は設計者なのでゼロ戦に搭乗もせず、ひたすら紙に図面を引いていくばかりになる。悲恋の方は、恋人がどんどん弱っていき、最後には亡くなってしまうに決まってる。そのままひねりもなく作れば、恐ろしいほど暗く、重く、退屈極まりない作品になるはずだ。


「風立ちぬ」はドラマチックなファンタジー映画である。


しかし宮崎駿はここに、「夢」という幻想的・ファンタジー的要素を無理矢理にねじ込んだ。実在の堀越二郎とカプローニは一度も対面してないはずだが(作品中でも夢の中でしか会ってない)、日本にいる二郎と、イタリアにいるカプローニがお互いが見ている「夢」の中でつながり、自由に会話まで交わしているという(普通ならこれはテレパシー)設定で、アニメならでは・現実にはありえないシチュエーションを無理なく同居させている。



過去の作品を振り返ると、ファンタジーであるはずの「ラピュタ」「トトロ」「千と千尋」「ハウル」「ポニョ」といった作品にはこういう描写は出てこない。しかし「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ(原作)」といったSF作品では、テレパシーや夢の中での会話といった設定が見受けられる。より現実味があり、シリアスな作品にのみ登場するものだ。宮崎駿は作品がリアル・シリアスに振れると、アニメの本質である「破天荒な楽しさ」を取り戻そうと、こういう設定を持ち込んで作品としてのバランスを取ろうとするのかもしれない。多分無意識に。




「風立ちぬ」に繰り返し登場する二郎とカプローニの夢の中では、実に様々な形の飛行機が飛び回っている。よくは知らないがおそらく「雑想ノート」などで書きためられていた宮崎駿の想像上の飛行機とか、テスト飛行しかしてない幻の機体とか、いろんなものがあるのだろう。三段の翼が三つ連なった九翼のものまであった。大体CMで使われてる二郎の「鳥形飛行機」も想像上のものだし。航空機オタクの宮崎駿がやりたい放題やっていた。カプローニの夢の飛行機に乗っている乗客も実に陽気で、変に巨乳のイタリア娘とかが多かった(笑)。夢だから、二郎とカプローニは体一つで翼の上を歩き回って普通に会話を交わす。作品中でカプローニ自身のセリフにあったが「夢は便利だ」。なので、この「夢の会話」の部分がとても明るく、楽しく、美しい。重くシリアスになりがちなテーマの作品のアクセントになり、ブレークになっている。関東大震災の真っ最中にさえカプローニは白昼夢で登場する。そしてこの「夢の会話」は映画のクライマックスにもなる。

「風立ちぬ」はダイナミックなアクション映画でもある


また「風立ちぬ」ではタイトル通り、劇中何度も風が吹く。それもとびきりのいい風が吹く。宮崎アニメにおける風は単なる自然現象ではなく、「変化」であり、物語の節目を観客に示す目印であり、作品の神たる制作者が演者たるキャラクターに課す試練である。風が吹くとキャラクターの人生の平穏や均衡が破られる。次のステージに向かわねばならない。


二郎と菜穂子の最初の出会いは、列車の外デッキで隣り合わせた際に橋にさしかかったせいで突風が吹き、飛ばされた二郎の帽子を菜穂子がキャッチした事がきっかけ。そのあとすぐに関東大震災が起こり、二郎は菜穂子たちを助ける事になる。そして二度目の出会いは、軽井沢で静養していた菜穂子が絵を描いていたが、ふいに風に飛ばされたパラソルを二郎がつかまえた事がきっかけだった。そしてラストシーン…。


宮崎駿はアニメ映画の監督だが、自身も作画上がりの「生粋のアニメーター」である。アニメは言葉ではなく動きで見せるものだ、という事を熟知している。基本「ディズニー」なのである。時にはストーリーそのものを動きから発想しようとさえする。「重力を意識した自然な動き」と「それを観客の感性に訴えるアニメ的なデフォルメされた動き」に関しては、一切の妥協がない。だから、作品内で吹く風も、制作者の意図を観客に伝えるキャラクターの一人なのだ。



その他にも、実は「風立ちぬ」ではさまざまな実験的な手法が試みられている。飛行機の音などのSE(音響効果)を「人の声」で行うというのもそのひとつ。最初聞いたときは「一体どうなるのか?」と思ったが、実際に映画を観てみると違和感はあまりない。どころか、人の声で表現する事で、音に「意志」が込められているように感じる。


例えば隼のテスト飛行のエンジン音〜離陸音。複数の「悪魔的なうなり声」が次第に次第に高まってきて、エンジンが始動する。これ、普通だったらホラー映画とかに使われる感じだ。カプローニの「飛行機は呪われた夢だ」という言葉を音で表現しているようにも思える。「空飛ぶ機械だけど、戦闘機だからちゃんと人も殺すよ」という事か。また隼が最高速度以上を出すために「動力降下(自由落下ではなくエンジンをふかしながら加速降下する)」する際のエンジン音と機体の軋み。まさしく悲鳴である。



また関東大震災の発生時も、複数の人の声を合成した不気味なSEだ。大地の叫びであり、呪いのようにも聞こえる。自然は人に優しいだけでなく、まるで罪なき人に罰を与えるかのごとくに襲いかかってくる事がある。私は個人的に、まさに主人公を演じた庵野秀明「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」の第6使途の「叫び声」を連想した。意志を持たないように見える物体が上げる叫び声の気持ち悪さだ。私は東北震災の被災者ではないのでわからないが、あの地震や大津波の音も、もし現場にいたらあのように感じただろうか。それにしても、70歳を超えた監督が、このような新しい手法を編み出した。「過去の遺産」で喰っていこうとだけしていたら、こんなものは生まれない。劇中の二郎と同様、宮崎駿も常に新しいものを求めているのだ。



「風立ちぬ」の登場人物たちにはみな時間がない。日本という国が戦争のために総力を結集しなければ生き残れなかった時代であり、飛行機づくりにたずさわった者たちは、時間も資源も何もない中で敵に勝つための軍用機を作らなければならなかった。できあがった飛行機にはパイロットが乗り込んで戦いに出ていくのだ。主人公の二郎も、寝る間も寸暇も惜しんで図面を引き続ける。おまけに菜穂子との恋愛も、当の菜穂子自身が「残された時間が少ない」ことがわかっていた。二郎が妹の加代に言う「僕たちは今、一日一日をとても大切に生きているんだ」という言葉はその通りである。菜穂子の美しさは、まるで散りゆく花の美しさだ。輝く時間が限られているからこその美だ。彼女自身の精神の気高さもあり、二郎との質素な婚礼の彼女は、ぞっとするほど美しい。今の我々とは比べものにならないほど、当時の人たちは濃密な時間を生きていた。


「風立ちぬ」はこのようにダイナミックな映画だ。悪く言えば「数十年前のカビの生えたような題材」を、まるでたった今のように、生き生きと我々の前に提示して見せてくれた。「今を生きる」二郎たちの物語だ。




posted by トトロ at 10:11 | Comment(0) | 風立ちぬ 評論 考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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